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そもそも「人が死ぬ」というとき、われわれはなんとなく その人をひとりの (不可分な) “個体”として扱っているが、 実はこれが結構あやしい。新山が死んだとき、オレは本当に死んでるのか? … いや、たぶん死んでるのだろうが、そもそも本当に「オレ == 新山祐介」だったのだろうか。 よく考えてみると、この2つは必ずしも完全に一致しない。 たとえば、もし新山がだれかに臓器提供をしたら、すくなくともその部分の 「新山」は、まだ生物学的には生きてるよね。でも精神的には死んでいるのだろうか? それもナゾだ。精神的にだって生きてることもあるといえる。 なぜなら、新山のことを知っている他人はまだ存在するのだから。 そう考えると、現代のほとんどの人は、たとえ墓が立てられたあとでも 完全に「死にきれていない」ことがわかる。その人に子供がいたら もっと「死にきれていない」だろう。ほかにも、昨日の新山祐介と 今日の新山祐介は、ほんとうに同一人物か? という疑いがある。 自分ではそう思い込んでいるけれど、それを証明してくれるものは何もない。 もしかすると、昨日の新山祐介は殺されていて、今日のオレは新しく生まれた新山祐介なんじゃないだろうか? なんしろ意識が途中で断絶してるんだから、あやしいよな! 名前が一致するだけじゃ不十分である。プログラマとしては、参照が一致しなければならない。

…このように新山は「個人」というものに対して非常に混乱した (ある意味、ふざけた) 見方をしているので、いまのところ個人の死についてもワケのわからん見解しかもてない。 たぶん、状況がくればもっとちゃんとした意見をもてるのかもしれないが…。 いまは、何もかもボワーっとしている。 そもそも新山の感覚では、個人というものは、量子力学の雲のように広がっていて、 一カ所に存在していない。だから新山は「個性」を主張するし認めるが、 「自己同一性」は主張しないし認めもしないように見える。 これはなんだかアホっぽい。個人のアイデンティティを認めなかったら、 それは同時に個人の責任というものも認めないことになるんじゃなかろうか? なぜって、オレは「今日の自分」と「明日の自分」が同一人物かどうかわからん、 といっているのだから。とにかく新山が確実にいえるのは、 「この世界は、いつだって、油断がならない」ということだ。 『我思う故に我あり』なんていってるようでは、まだ甘いのである。 しかしオレがどれほど混乱していようと、病的な考えをもっていようと、 新山の身体はパーフェクトに動き、腹もへるし眠くもなる。 オレは世界に感謝しなければね。…

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2009/6 (b)

私の考え方も概ね一緒。自意識てのは社会的に生存確率の高いミームに過ぎず、アイデンティティてのは「個人の責任」という(論理的には矛盾を含む)制度でもって社会の維持コストを下げるためのアドホックな仕組み、と考えるしかないと私も思ってる。

(via raurublock) (via yuco)

2 years ago

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